Gofunai 御府内 江戸の範囲

EdoShubikizu02_2000.jpg

江戸の範囲


 江戸時代、江戸の市域とされた地域を御府内と呼んでいたが、江戸の境界・範囲については意外にも幕閣の間でも統一見解はなかった。何故なら、江戸時代は身分社会で町民・武士・僧侶により支配する機関もそれぞれ独立しており今日で言う行政区画の制度はなかった。

 江戸市中(御府内)の範囲を幕府が示したのはたった一度、しかもその時期は江戸幕府誕生から二百年を過ぎた1818年だった。文政元年(1818)8月に、目付牧助右衛門から「御府内外境筋之儀」についての伺いが出された。

 この伺いを契機に、幕府評定所で入念な評議が行われ、このときの答申にもとづき「江戸朱引図」を作成し、同年12月に老中阿部正精から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の正式見解が示された。

 これが江戸の範囲として幕府の唯一の正式見解となった。

 ・外側朱引き線(札懸場堺筋 並 寺社方勧化場堺筋)
 ・内側墨引き線(町奉行支配場堺筋)


EdoShubikizu01_2000.jpg江戸朱引図(東京都公文書館所蔵)


関連

江戸の範囲~天下の大江戸、八百八町というけれど
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0712edo_hanni.htm

朱引きと墨引き ~江戸の境界~
https://bcr-jj.blogspot.com/2016/03/blog-post_6.html

江戸の範囲
http://www.viva-edo.com/edo_hanni.html


広辞苑 第四版

ご‐ふない【御府内】

江戸城を中心として、その四方、品川大木戸・四谷大木戸・板橋・千住・本所・深川以内の地。地図では、その境界線を朱で書いたので、これを御朱引き内という。



御府内(読み)ゴフナイ
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E5%BA%9C%E5%86%85-504070


デジタル大辞泉の解説
ご‐ふない【御府内】

江戸時代、町奉行の支配に属した江戸の市域。文政元年(1818)、東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内側と定められた。
出典 小学館
https://kotobank.jp/dictionary/daijisen/1194/
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E5%BA%9C%E5%86%85-504070


大辞林 第三版の解説
ごふない【御府内】
江戸時代、江戸の市域とされた地域。支配向きごとに境域は一定しなかったが、1818年寺社勧化場と塗高札掲示の範囲をもってその境域とし、絵図に朱線で示した。大体、東は中川、北は荒川・石神井川下流、西は神田上水、南は目黒川を境とする。朱引き内。
出典 三省堂 / 大辞林 第三版について 情報
https://kotobank.jp/dictionary/daijirin/1086/
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E5%BA%9C%E5%86%85-504070#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88


精選版 日本国語大辞典の解説
ご‐ふない【御府内】

(「ご」は接頭語) 江戸時代、江戸の市域のこと。支配向により、その境域は異なっていたが、文政元年(一八一八)になって、曲輪内より四里までの所、東の方は亀戸・小名木村辺、西の方は角筈村・代々木辺、南の方は上大崎村・南品川町辺、北の方は上尾久・下板橋村辺、これらを含んだ地域の中と決められた。
出典 精選版 日本国語大辞典 / 精選版 日本国語大辞典について 情報
https://kotobank.jp/dictionary/nikkokuseisen/1569/
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E5%BA%9C%E5%86%85-504070#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8


コトバンクより





ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント