Hofreis 1609 オランダ国王使節の参府

国王使節、駿府へ


1609年、オランダ国王使節が駿府城を居城とする大御所徳川家康を訪問し、通商許可朱印状を入手し、日蘭通商が始まった。

日蘭通商が成立するには、日蘭交流が始まった、リーフデ号の遭難(1600年)事件にまで話を戻さなければならない。和蘭船籍のリーフデ号は、悲惨な航海の末、豊後国臼杵の佐志生海岸(大分県)に漂着し、佐志生や黒島の住民が漂着者を助けた。生存者は船長ヤコブ・クワケルナック(Jacob Quaeckernaeck)、航海長アダムズ(William Adams)、乗員のサントフォールト(Santvoort)それにヤン・ヨーステン(Jan Joosten van Lodensteijn)など24名である。

クワケルナック、アダムズ、ヤン・ヨーステン等は、家康が彼等を日本に留めたため帰国することができなかった。ところが5年後の1605年、クワケルナックとサントフォールトだけは帰国を許された。彼等は、平戸城主の新造船で東南アジアのバタニ経由で帰国した。帰国に際し家康は、日本がオランダと交易を希望していることを告げる国王宛の親書を持たせた。

4年後の1609年7月1日(慶長14年5月30日)、二隻のオランダ船(パイレン号とフリフーン号)が平戸に入港した。徳川家康が待っていたオランダ国王使節の来日であった。
この船には、リーフデ号の乗組員の一人、メルヒオール・ファン・サントフォールト(Melchior van Santvoort)が通訳として乗船していた。オランダが、幕府公式の外交記録(「異国日記」)に記載されたのはこの時からである。

使節の中心人物は、アブラハム・ファン・デン・ブルック(Abraham van den Broek)とニコラース・ポイク(Nicolaes Puijck)である。1609年7月27日(慶長14年6月26日)、平戸を出発して駿府城に皇帝家康を訪問した。
オランダ使節は、共和国連邦総督オランニェ公の親書と家康への献上の品を携えて駿府へ向った。駿府城で締結された日蘭外交交渉によって、家康は正式に平戸に和蘭商館の設置を許した。

ポイクの記録によれば、1609年8月14日(慶長14年7月15日)に家康に謁見し、1609年8月20日(慶長14年7月21日)に朱印状四通と書翰一通を受領している。

おらんだ船、日本へ渡海の時、何れの
浦に着岸なすといえども、相違あるべからず候
向後、この旨を守り、異議なく往来せらるべく
聊かも疎意あるまじく候なり、よって件のごとし

  慶長拾四年七月廿五日

   ちゃくす るうんへいけ

(注)御朱印状の日付は受領日より数日遅い廿五日となっている。

これがヨーロッパの国としては、日本が初めて行った外交交渉の記念すべき第一歩である。ところが日本の記録には、その内容を詳しく期したものが少ないため、不正確な記述が後を絶たなかった。あるとすれば、ニコラース・ポイクが東インド会社に復命した記録が残されているはずであったが、それさえも行方不明であった。

ニコラース・ポイクの記録は、幸いドイツのカールスルーエのバーデン地方図書館に唯一写本として現存することがわかった。これこそ日蘭関係の間の空白を補う貴重な記録であった。正式名は、最初のオランダ遣日使節ニコラース・ポイクの「駿府旅行記」と題するもので、オランダ国立中央図書館第一部長ルーロフス博士によって明らかとなり、東京大学史料編纂所海外史料部(当時)の金井園教授らのグループが翻訳したものである。

画像
徳川家康朱印状/オランダ国立公文書館蔵


ニコラース・ポイクの「駿府旅行記」


「駿府旅行記」の全文は、金井圓氏が「日蘭交渉史の研究 第四章 ニコラース・ポイクの駿府旅行記」(思文閣)に紹介した。


参照・引用

外国の大御所詣で-オランダ国王使節の来日まで-
http://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/05_11.htm

関連

Diary of Hofreis 1609 ニコラース・ポイク駿府旅行 旅程
http://japancandn.at.webry.info/201803/article_2.html

日蘭交渉史の研究 第四章 ニコラース・ポイクの駿府旅行記



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